三田鉄路祭(10月22日(土))
こんにちは、K.Tです。この頃少々寒く感じるようななり、まさに冬到来の時です(まあ、そんなにオーバーではありませんが)。
さて、ようやくこの時期がやって参りました。そう!毎年秋の恒例行事・新月祭が三田&上ヶ原キャンパスで行われます。三田キャンパスに関しては10月22日(土)、23(日)に行われ、このブログではその模様を二回に渡って紹介していきます。
さあ、1日目はどうだったのでしょうか?じっくりご覧下さい!!
▲▼昨年と同じ“アカデミックコモンズ・プレゼンテーションルーム”で展示されました。写真は開場時間の12時40分までに朝から準備を行っている様子です。机&パネル設置、写真展示、ジオラマ展示などを限られた時間内で行いました。
▲全ての準備が整い、いざ開場です!!
▲多くのお客様がご来場されました。写真、看板、ジオラマなどをご覧になりながら、お楽しみされました。お客様の笑顔を見ていると、こちらも嬉しくなってきました。また、お客様の中には懐かしがられる所も見せられ、私たち会員とお話しさせて頂きました。まさに“鉄道の思い出”です。
▲ただ、この日は土曜日であったのか、来場者がそれほど多くはありませんでした。やはり、土曜日は学校やお仕事があったのかもしれません。
ではここで展示内容をお見せします。
▲▼三田キャンパス(上)&新三田駅です。本物同然の外見でリアル感が漂います。
▲モニターです。模型の車両に小型カメラを搭載し、走行の様子が映されます。臨場感がすごく、お客様も大変夢中になられました。
▲お!!新三田駅にJR宝塚線おなじみの車両たちが止まっています。
▲特に“こうのとり”はとても人気があります。
▲▼神戸電鉄も展示されています。
▲この目線から見ると、リアルさが醸し出されます。
▲まさかのJRと阪急の競演!!
▲▼阪急関連の物品、看板です。お客様の中には「これ覚えてる!!」と仰られた方もいらっしゃいました。これらを通じて色んなお話をさせて頂きました。
▲▼写真展示です。九州(上)&関西・その他地域です。全て当会員が旅先で撮影した物です。
様々な展示品が会場内に飾られ、多くのお客様が鑑賞されました。
なお、1日目の来場者数は168名でした。
▲▼1日目が終わり、控え室でその日のミーティングが行われました。
今年最初の学祭はとりあえず無事に終了しました。さて、2日目はどうなったのでしょうか?2日目もお楽しみに!!
※展示物における企業との関係はありませんので、ご了承下さい。
船場祭2日目(10月9日(日))
こんにちは、それでは二日目の模様をご覧下さい!!
▲二日目も開場1時間前から来て、準備をしました。開場時間になるとお客さんが次々来場されました。
▲山陰特急のこうのとりです。加悦合宿へ行った際も見かけました。
また加悦へ行く時はこれに乗りたいな~。
▲ん?何かがこちらに来るぞ。
▲▼時間が経つにつれて、お客さんが増えてきました。
▲最もお客さんに興味を沸かせたのがカメラ搭載車輌から映されるモニターです。お客さんの顔が映されるとワクワクされていました。
私も見ましたが、かなりの臨場感があり、迫力がありました。
▲▼さてさてこの二日間ですが、お子様へ向けて鉄道クイズが開催されました。1日目の写真はありませんが、2日目の写真はあります。因みに問題ないようですが、3つのくろしお号の写真を見せ、「この中でオーシャンアローとして走っていたのはどれでしょうか?」と問題を出した上で答えてもらうことでした。お子様方は元気の良い声を出して答え、賞品の色鉛筆をもらって喜ばれていました。本当に子どもは元気ですね~。
▲他大学さんのブースは2日目も大盛況でした。
▲さあ!!2日目の来場者数です。計420人でした。多くのお客様にご来場されて、本当に良かったです!!
▲▼全てのお客様がお帰りになられた後、全員で片付けに取り掛かりました。
▲他大学さんも片づけを行いました。
▲さらば船場!!
この二日間行った模型運転は三田・上ヶ原学祭でも行われます。ここでの教訓を生かし、学祭ではお客様にすばらしい鉄道研究会の魅力を発していきます。二日間の出展でご来場になられた皆様、本当にありがとうございました!!さあ、学祭がんばるぞ!!
【オマケ①】
▲一部の参加者で撮った記念写真です。
【オマケ②】
三田・上ヶ原での学祭の詳細情報を載せます。キャンパスによって日にち、場所、時間などが異なりますので、ご注意下さい。
日程 三田:10月22日(土)・23日(日) 上ヶ原:11月3日(木)~6日(日)
時間 三田・10月22日(土):12時40分~17時 23(日):9時50分~16時
上ヶ原・11月3日(木):12時40分~17時 4日(金):10時~15時
5日(土):10時~17時 6日(日):10時~16時
場所 三田・アカデミックコモンズ・プレゼンテーションルーム
上ヶ原・3日&4日:学生会館会議室9
5日&6日:文学部棟第4教室
船場祭1日目(10月8日(土))
こんにちは、K.Tです。最近冷える日が多くなりました。この前までかなり暑い日が続いたのですが、もう秋なんですね~。そう考えると2016年も残り3ヶ月を切ったことになりますから、一年あっという間に過ぎますね。
私たち鉄道研究会は学祭が控えていますからますます忙しくなります。お越しになられる皆様、お楽しみにお待ち下さい!!
さて、来る10月8日(土)・9日(日)にかけて大阪・船場にて船場鉄道フェスティバルが開催されました。昨年に引き続き、関西学院大学も出展しました。一般のお客様に楽しんで頂いたこともそうですが、私たちと同じ他大学の鉄道研究会の方々と交流ができ、話が弾みました。他大学さんとはこのような時にしか触れ合うことが滅多にありませんので、貴重なお話を聞けて良かったです。
▲私たち関学のブースです。二日前から準備を行ってきました。
▲模型のジオラマです。ん?どこかで見たことがあるプラットホームと建物が。
▲そう!!このホームは私たちが毎日通う西宮上ヶ原キャンパスの最寄り駅である阪急・甲東園駅です!!但し、現在とは異なる旧駅舎をモデルにしています。ですが、ホーム自体は今も同じですので、本当にそのまんまです。
▲更に奥に見える建物は上ヶ原キャンパスの時計台ではありませんか!
阪急バスも走っていることで上ヶ原の様子を再現できています。
▲ジオラマの写真左に高架線が見えますが、これは甲東園~門戸厄神間にある山陽新幹線を再現しています。写真はN700系(さくら・みずほ)と今は亡き100系です。まさか新旧新幹線が共演できるなんて・・・。
▲▼関西ではおなじみの223系0番台&321系も走っています!!
▲▼国鉄165系&丸の内線色のデハ1000形も展示されています。
▲▼阪急9000系&8000系も走っています。
▲お!阪和線を走る列車の共演!と言いたいところですが、右の287系は福知山特急・こうのとりでした(笑)
▲ブルートレインも走っております。
本当に色んな車輌を走らせて、会場にお越しのお子様から大人の方まで大好評でした!!また、他大学さんのジオラマも大きく大勢のお客様がご覧になられていました。
▲これまで鉄研メンバーが撮影してきた写真も多く展示されました。
▲終了時間になり、後片づけを行いました。それと同時に模型をは知らせた後の線路をレールクリーナーで綺麗にしました。
▲他大学のブースも閉店されていきました。
▲この日のご来場者は総勢450名でした。
会場にお越しの皆様、ありがとうございました!!
さあ、1日目が終了しました。2日目はどんな感じになるでしょうか?
2日目の記事もお楽しみにお待ち下さい!!(2日目へ続く)
【オマケ】
この日は大阪産業大学さんのブース前で“半熟BLOOD”さんのライブが行われました!!“半熟BLOOD”さんは関西中心に活躍するアコースティックユニットで、アコースティックとバンドを使って演奏します。この日は10月30日(日)に開催される北神急行フェスティバルの宣伝も兼ねて、産大さんとのコラボという形で会場を盛り上げました!!
▲歌声もすばらしく、船場センタービルをメッチャ響かせました(笑)
また、お客さんに対してのトークでも楽しませて頂きました!!
▲更に!!各大学のブースを巡回されて、私たちのブースへも訪問されました!!
“半熟BLOOD”さん、すばらしい演奏を見せて頂き、ありがとうございました!!
▲北神弓子(きたがみきゅうこ)ちゃんもありがとう!!
京都鉄道博物館(10月1日(土))
こんにちは、K.Tです。
長い夏休みも終わり、秋学期が始まりました。この時期は学祭や船場祭などのイベントが開催されます。勿論、私たち鉄道研究会も出展することになりました。無事に成功するよう頑張っていきます!!
さて、来る10月1日(土)に鉄研メンバーで今年4月に開館したばかりの“京都鉄道博物館”に行きました。以前から行く機会を伺っていましたが、ようやくその時が来て良かったです。個人的に大阪・弁天町にあった“交通科学博物館”に行った覚えはありますが、そこで展示されていた車輌などが京都に移設されています。
▲博物館エントランスホール前です。ここから中に入ります。
▲こちらは旧二条駅舎で、出口となっています(中はミュージアムショップです)。
ここからは博物館で展示されている一部の車輌を掲載します。
館内では様々な車輌展示を始め、鉄道関係の仕事を体験できたり、歴史や車輌の仕組みを詳しく知ることができたりなど言葉では表現できないくらい驚き満載です。
本当はたくさん書きたいところですが、皆様のお楽しみを潰さないようあえて止めときます(笑)
博物館の外には蒸気機関車が展示されている扇形車庫が隣接しています。
▲かつては“梅小路蒸気機関車館”という名称で運営されていました。
▲この日は“JR西日本吹奏楽団”さんによる演奏会が行われていました。
ここまで博物館は見るに尽きない所だなあと思っていらっしゃる方もいると思いますが、もっと驚く場所があります。それはこちらです。
▲本館3階にある“スカイテラス”です。ここからは新幹線から在来線の特急まで数多くの列車が見ることができます。まさに写真撮影には絶好の場所です!!
瞬く間に色んな列車が通り過ぎていきます。また、東寺や京都タワーもあることでよりすばらしい写真を撮ることができます。
今回は念願だった“京都鉄道博物館”に行くことができ、本当に良かったです。特に京都は多くの鉄道が発着している所ですので、鉄道ファンにとっては本当にたまりません!!(笑)
一度行ったらまた行きたいと思わせる“京都鉄道博物館”に皆様も行かれてはいかがでしょうか?楽しいですよ~!
【お知らせ】
10月8日(土)・9日(日)に大阪・船場にて船場鉄道フェスティバルが行われます。
昨年同様、ジオラマで模型を走らせます。お時間がある方は是非行かれてはいかがでしょうか?お待ちしております。
※詳しくは下記のサイトをご覧下さい。
https://www.eventscramble.jp/e/semba_railway/2016/#semba6
神戸観光(9月7日(水))
こんにちは、K.Tです。8月が過ぎ、9月に入りました。
でも暑い日は続くばかりで、台風が発生したり、天気が不安定だったりと落ち着かない天候が続きます。
そんな日に私たち鉄研メンバーは旅行を敢行しました。旅行といっても大学に近い神戸へ行く程度ですが、神戸といえば三宮や元町など賑やかな市街地を思い浮かばれると思います。
そこで今回は市街地から離れた西神・北神方面へ向かいました。実際行ってみたら、同じ神戸市とは思えない所でした。
では早速参りましょう!!
▲▼集合場所はJR・地下鉄新長田駅最寄りの若松公園・鉄人28号モニュメント前です。
▲▼このモニュメントは1995(平成7)年に起きた阪神淡路大震災の復興シンボルとして造られました。なお、この長田地区は当時被害が最も甚大だった場所でした。
▲▼まず最初に行く場所は神戸総合運動公園で、地下鉄西神・山手線に乗車します。新長田駅の改札口は床から壁に至るまで煉瓦造りとなっています。
▲▼到着しました。駅を出た目の前に野球場(ほっともっとフィールド神戸)があります。この球場はプロ野球団のオリックス・バファローズの球場として用いられています。実際、ここに来るまで地下鉄の車内、駅の広告にオリックスの宣伝が用いられているのを至る所まで目にしました。また、この近くにはオリックスの二軍球場も備えられています。なお、メジャーリーガーのイチロー選手もかつてこの球場でプレイしました。
ここでは球場周辺を散策し、再び駅に戻って湊川公園駅へ向かいました。
▲▼湊川公園駅は神戸電鉄・湊川駅へ乗換が可能です。ここから谷上駅へ向かいます。なお、駅の看板が阪急と同一の物が用いられています(写真は新開地方面へ向かう電車です)
▲▼なお、私たちが乗車した電車は粟生線・志染駅へ向かうものだったので、鈴蘭台駅で三田方面へ乗り換える必要があります。
▲程なくして三田方面行きが入ってきました。これに乗って谷上駅へ向かいます。
▲沿線の風景を見ていると、神戸市とは思えない長閑な場所が広がっていました。本当に神戸市は広いと実感しました。
▲▼谷上駅に到着しました。この駅は神戸電鉄・北神急行が乗り入れます。また、先程乗車した地下鉄西神・山手線も乗り入れ来ます。従って、神鉄と地下鉄が同一ホームで乗換えが可能というわけです。
▲▼駅を出て近辺を散策しました。駅近くには北神急行の車輌基地があります。なお、写真の通り北神急行は六甲山をトンネルで貫いているため、谷上から新神戸・三宮へはわずか10分以内で行けます。
▲車輌基地の裏側から見ると、北神急行の車輌が停まっていることがわかります。また、遠くを眺めると建物や山々が見えます。
その後、駅周辺を散策し、昼食を摂った後、北神急行に乗車して三宮へ向かいました。そこで今回の旅は終了となりました。
今回の旅では地下鉄・神鉄・北神が神戸市とその周辺地域を結び、JR・阪急・阪神と三宮や新開地でアクセスして、輸送に大きく貢献している事がわかりました。また、広大な神戸市は賑やかな市街地である三宮を初め、長閑で山々が囲んでいる西神・北神方面が存在することです。神戸市は広い事が改めて理解できます。
皆様も行かれてはいかがでしょうか?
【豆知識】
神戸市営地下鉄西神・山手線:西神中央~新神戸間の22.7kmを結ぶ路線。1977(昭和52)年に名谷~新長田間、1983(昭和58)年に新長田~大倉山、1985(昭和60)年に学園都市~新神戸、1987(昭和62)年に西神中央まで開通した。1988(昭和63)年に北神急行と相互直通運転が開始された。
神戸電鉄:1926(大正15)年に創立した神戸有馬電気鉄道が母体。1988(昭和63)年に現在の社名になる。有馬線(1928(昭和3)年開通・湊川~有馬温泉間22.5km)、三田線(1928(昭和3)年開通・有馬口~三田間12.0km)、粟生線(1952(昭和27)年開通・鈴蘭台~粟生間29.2km)、公園都市線(1996(平成8)年開通・横山~ウッディタウン間5.5km)、神戸高速鉄道南北線(1968(昭和43)年開通・新開地~湊川間0.4km)の全長69.6kmを結ぶ路線。
北神急行:谷上~新神戸間の7.5kmを結ぶ路線。1988(昭和63)年に開通(会社自体は1979(昭和54)年創立)。
【参考文献】
全国鉄道事情大研究~神戸篇~(1992、草思社、著:川島令三)
関西の電車~鉄道ジャーナル4月号別冊~(2015、鉄道ジャーナル社)
和歌山旅行(8月20日(土))
こんにちは、K.Tです。毎日暑い日が続きますね~。
世間ではオリンピックや高校野球が盛り上がり、まさにスポーツの季節です。そんな今の季節に私たち鉄研メンバーは秋の学祭の準備を行わなければなりませんが、皆で鉄道旅行に行く機会が巡ってきました。以前は合宿で京都・加悦に行きましたが、今回は和歌山方面です。
私は小学生時代に家族で白浜に行き、約10年ぶりに和歌山に行くことになります。しかも今回は和歌山駅と御坊駅に初めて降りました。
さて、どんな旅になったのでしょうか?早速本題にまいりましょう。
▲集合場所は和歌山駅です。この駅は阪和線、和歌山線、紀勢本線、和歌山電鉄が乗り入れます。
▲最初に乗るのは和歌山電鉄・貴志川線です。この路線は元々は1916(大正5)年に開業した和歌山~貴志を結ぶ南海電鉄・貴志川線でしたが、2006(平成18)年に譲渡されました。
▲この路線はユニークな車輌が走っており、私たちが乗車したのは“おもちゃ電車”でした。しかもデザインは水戸岡鋭治氏によって行われました(水戸岡さん、凄いですね~!!)。
▲▼車内から風景が見られます。以前行った加悦を思い出します。
▲和歌山駅から約30分で終点・貴志駅に着きました。ん?何かを連想させる駅舎だなぁ。皆さん、もうお気づきですね?
▲▼そう!!和歌山電鉄といえば、たま駅長です!!猫が駅長を務めているというこの駅の最大の目玉なのです!!因みにこの日は終始寝ておりました(笑)
▲地元の方に写真を撮って頂きました。
この駅では様々な猫のデザインが施されていますが、今回はあえて記事に載せないことにしました。理由はこのブログを閲覧されている皆様のお楽しみを低下させるからです。是非一度行かれてはいかがでしょうか?(尚、ここでは地元の方のお話も聞けました)
▲和歌山駅に戻るところ、乗車したのは何と!南海色の車輌ではありませんか!これは偶然でした(笑)この路線は本当に多彩な車輌が多いところが目玉です。
▲さて、和歌山駅で降りて街に出ました。和歌山といえば、一度和歌山ラーメンを堪能したいところです。
▲私が頼んだのは大盛りです。ご覧のようにかなりボリュームがあります。値段は800円でした。
▲▼一向は再び和歌山駅に戻り、普通電車で御坊駅に向かいました。
▲そこから紀州鉄道に乗り換えました。この路線はJR御坊~西御坊のわずか2.7㎞を結ぶ単線非電化路線です。1928(昭和3)年に地元住民が“御坊臨港鉄道”として御坊~日高川(現、廃止)間を結ぶために開通しましたが、1972(昭和47)年に東京に本拠を持つリゾート開発会社鶴屋商事グループに買収されたことで“紀州鉄道”と改称され、現在に至っています。
▲▼現在の終点・西御坊駅ですが、住宅街の中に在る簡素な駅となっています。
▲西御坊駅から先は廃線跡となっており、かつて終点だった日高川駅まで続いています。一同はその日高川駅跡まで歩きました。当時の線路を初め、踏切や信号機などの一部が残されています。
▲▼日高川駅跡です。草が生い茂っている中にかつてのプラットホームの跡が残されています。この駅は1989(平成元)年に乗客数が少なかった事から廃止になりました。
この路線自体は列車の本数や利用客は少ないですが、今でも地域住民の生活の足として活躍しています。
▲その後は紀伊御坊駅まで歩きました。この駅では紀州鉄道のグッズが買えます。
一同はここから御坊駅まで乗り、JRに乗り換えて帰路に就きました。今回の旅では和歌山県のローカル鉄道に乗りましたが、それらの歴史を遡ると様々な経緯を経て現在に至っている事がわかりました。他会社への譲渡・買収でいかに運営を維持していくか、色んな手法を使っていることを感じました。和歌山は海や山といった観光地が多くありますが、今回乗った鉄道に乗るのもいかがでしょうか?是非お勧めします!!
【オマケ】
阪和線、紀勢本線には多彩な電車が走っています。今回は主なものを載せます。
【参考文献】
全国鉄道事情大研究~大阪南部・和歌山篇~(著:川島令三、草思社)
加悦合宿 三日目(8月8日(月))
三日目の模様は再びK.Tがお伝えします。
前日と同じ6時半頃に起床し、7時過ぎ頃に朝食を頂きました。
▲主に魚のホイル焼き、ヒジキ、厚揚げ、味噌汁、湯豆腐などでした。
▲▼お腹を満たして、今日も頑張っていくぞ~!!
▲その後、身支度を済ませ、宿泊代を払い、宿の前で記念撮影をしました(撮影者は女将さんです)。女将さんに最後の挨拶も済ませ、出発しました。井筒屋さん、三日間本当にお世話になりました。
▲まずは町役場へ向かい、観光協会さんからサイクリング用の自転車をお借りしました。今日はかつて走っていた加悦鉄道の廃線跡をサイクリングします(因みに去年と同じです)。
▲町役場内にあるマップです。私たちはここからSL広場まで向かい、そこからサイクリングロードに入ります。ゴール地点は与謝野駅前です(このマップでは旧名・野田川駅と記されています)。このマップを見ると改めて加悦の町が広範囲に広がっているのがわかりますね~。
▲自転車に乗って、いざ出発です!!(なお、保存会さんの方々が同行して頂きました)。ちりめん街道に沿って、SL広場まで行きます。
▲▼ちりめん街道を抜け、SL広場付近に差し掛かった時にのどかな田園地帯が広がっていました。やはり、加悦は良い所ですね~。
▲▼SL広場で休息です。三日間過ごしたSL広場ともお別れです。保存会・食事を提供して頂いたお店の皆様、本当にありがとうございました!!
▲それでは本日メインの加悦鉄道廃線跡・サイクリングロードに入ります。加悦鉄道は大正時代末期に開通した路線で、現在の京都丹後鉄道・与謝野駅から南に伸びていました(廃線は1985(昭和60)年)。当初はこの地で生産される織物のちりめんを輸送を担っていましたが、太平洋戦争中はSL広場付近に存在した大江山鉱山からニッケルの輸送も担いました。写真はSL広場付近にある当時の様子を語る看板です。ご覧の通り、当時は鉄道の線路が配置されていた事がわかります。
※詳しくは最後のオマケを参照して下さい。
▲SL広場からは当時の鉱山跡の煙突が見えます。
▲それでは廃線跡サイクリングの始まりです。
▲SL広場が在る方角です。また来る日までさよなら~。
▲当時の踏切跡も残っているのがわかります。
▲加悦駅跡です。旅客自体はここから与謝野駅までですが、先程の大江山鉱山跡駅までは後年敷かれた貨物線が延びていました。
▲▼因みに当時の加悦駅には機関車の方向を変えるためのターンテーブル(転車台)がありましたが、現在の与謝野町加悦庁舎には何と!!当時の跡地があります(よく遺してもらいましたね~)
▲これがその与謝野町加悦庁舎です。
▲更に庁舎の前には前日訪問した加悦鉄道資料館が在ります。尚、この駅舎は当時とは180度向きが異なっていました。
▲▼再び自転車を走らせます。地面には線路が描かれていて、本当に線路を走っているようです。
▲加悦駅跡から与謝野駅(旧名、丹後山田駅)まで長い道のりでしたが、その間広い田園地帯、周りを山が囲んでいました。また、ある建物からはちりめんを織っている音も聞こえ、「今でもわずかに丹後ちりめんを織っている家が残っている」と感じました。なお、写真でもわかりますが田園に珍しい(?)白鳥がいました。どんな種類かはわかりませんが、この地域では普通に生息しているんでしょうかね。このように自転車を走らせながら都会の人間にとって珍しいものなどに遭遇するという、これまた滅多に無い経験をしました。
▲▼その後与謝野駅を通り越して、岩滝口駅との間に在る踏切に行きました。加悦鉄道の線路はここまで延びていたようです。
▲これで今回の加悦鉄道廃線跡サイクリングは終わりを告げました。
その後は与謝野駅まで行き、自転車を返却しました。
▲最後に合宿に参加した鉄研会員全員で写真を撮って頂きました。
本日まで同行して頂いた保存会の方々とお礼の挨拶を済ませ、お別れしました。よって、私たちもこの与謝野駅において一応の解散をし、それぞれ家路に就きました。
今回の合宿は去年と同じく加悦の地でしたが、個人的に去年とは少し違うと感じました。去年は加悦鉄道の事はあまり知らず、北近畿地域の事すら興味があまりありませんでした。しかし、今回は事前に調べてきた上で「加悦鉄道及び、国鉄に興味が沸いてきた」と感じてきました。よって、この合宿に参加した事に決して無駄にせず、今後の鉄研の活動において参考にしていきたいと思います。勿論、またこの加悦に行ってみたいとも思いました(特に鉄研の活動以外で)。皆様も是非加悦に行ってみてはいかがでしょうか?良い所ですよ~~!!
※なお補足しておきますと、自分は大阪から行き・帰りともおよそ6時間もかかりました。なぜなら、鈍行を使用した上に京都丹後鉄道は一時間に列車が1,2本(普通、特急)程度で単線だからです。自分は今回の合宿では途中の天橋立や宮津で30分~1時間も待つ羽目になりました。どうしても早く行きたい方は特急列車、またはバス等をご利用して頂くことをお勧めします(まあ、鉄道好きの方は鉄道を使われると思いますが(笑))
最後になりますが、三日間お世話になりました加悦鉄道保存会・宮津海陸運輸(株)・井筒屋さん・旧尾藤家の管理人の皆様、本当にありがとうございました!!
【オマケ】
※以下は今回の合宿前に事前調査においてまとめた資料の中で加悦鉄道に関することを抜粋した内容です(一部改筆している箇所があります)。
日本の町並み調査報告書集成23 近畿地方の町並み4(村上訒一、東洋書林)
加悦町は古代以来、丹後各地と与謝峠を介して近畿中央部を結ぶ結節点として機能を発揮し、中世からは絹織物の産地として、近世からは物流の基地として栄えてきた。特に、丹後ちりめんが導入された江戸中期以降は日本を代表するちりめんの産地となり、単にちりめんのみならず、それを支えるその他の産業も発展してきた。そして、1965(昭和40)年代後半にはちりめん産業はピークを迎えるが、それ以降繊維産業は衰退の道を歩み始めた。
ちりめん街道は交通手段の変化と共にその役割を変えていった。1926(大正15)年12月に加悦~国鉄宮津線丹後山田駅を結ぶ私鉄・加悦鉄道が開通し、人々と物の流れがちりめん街道から加悦鉄道に移っていった。さらに1930(昭和5)年に街道東側へ丹後と丹波を結ぶ府道福知山宮津線が新設され、ちりめん街道はさらに交通から遠ざかることになった。このように鉄道と府道の完成により、ちりめん街道は交通と物流の基地としての地位を奪われ、次第に静かな住宅地と化し、街道筋を旅人が通過することは全くなくなってしまったのである。これは町にとって決定的なことであり、その性格を根本的に変える要因となっていくのである。
前方後円墳とちりめん街道~地域史から日本史へ~(広瀬和雄、昭和堂)
1924(大正13)年に宮津線の建設が始まると、加悦谷・出石を経由して豊岡につなげようとする運動が惹起されたが、失敗に終わり、宮津線の丹後山田~加悦間のわずか五キロメートル強を結ぶ加悦鉄道の建設が企図された。この建設は加悦の歴史にとって特筆すべき事であった。理由は本来の鉄道のような多額の固定資本を要する事業を誰かに頼るのでもなく、基本的に住民自身の力で実現したからである。つまり、加悦住民の自治能力の高さを内外に立証する事業といえる。なお、加悦鉄道は資本金30万円の株式会社として1925(大正14)年4月に発足し、同年12月に開通した。また、加悦鉄道の建設は、近世初頭以来の加悦の町並みに、初めて本格的な近代的都市計画のメスが入るきっかけでもあった。加悦駅を建設するために駅前道路の拡幅が図られたが、それは加悦における最初の近代的都市計画事業であった。因みに、都市計画事業というのは都市全体を覆うマスタープランに基づき、街区整備や土地利用制限によって都市の景観を計画的に作り出していく事業であったが、昭和期に入ると、いわゆる都市部だけでなく農村部においても着手する自治体が増え始めていた。加悦における都市計画事業はまさにその働きを先取りする事業であった。
|
旅客人数 |
貨物 |
手小荷物 |
1926(大正15)年 |
25333人 |
252トン |
6137キログラム |
1927(昭和元)年 |
254241人 |
14908トン |
138555キログラム |
1928(昭和2)年 |
297940人 |
14908トン |
201385キログラム |
だが、大正から昭和にかけて加悦の自治は一つの限界に直面した。一つの理由は自治事業として行わなくてはならない事業の規模が次第に大きくなり、一つや二つの町村で担えるようなものではなくなってしまったからである(例:尋常小学校や高等小学校に代わる中等教育施設、道路、鉄道の建設)。それは加悦鉄道も同じで、1930年代には事業の発展に対して会社の幹部による京都府や政府への陳情が不可欠になってしまった。もはや加悦の住民に必要な公共事業を加悦町などの自治の力だけで担う時代の終止符でもあった。特に1927(昭和元)年3月の丹後大震災の復興の困難が町村自治の限界を白日の下にさらしたのである。加悦町は町の中央を貫く自動車道の建設などの復興計画を立案したが、それは加悦町一町の力だけによって京都府や政府の援助無しに遂行できるような計画ではなかった。つまり、町村自治の限界を露呈させる事になったのである。その後もあらゆる努力を尽くしたものの、自治解体の流れの食い止めには繋がらなかった。その結果、住民自治の象徴であった加悦鉄道は大江山で採れるニッケル鉱の運搬手段への変貌を余儀なくされ、1939(昭和14)年に大江山ニッケル鉱業株式会社に経営権を譲渡し、ちりめんと住民の足から戦時経済を支えるニッケル鉱業運搬手段へとその姿を変えた。
加悦鉄道は1985(昭和60)年に廃止された。尚、この路線の親会社である日本冶金工業の専用線も加悦・与謝野から延びていた。